これは面白かった。とても面白かったので前作『魔法の世紀』を今読んでるところ。
落合陽一『これからの世界をつくる仲間たちへ』
プロローグ
デジタル計算機が生まれて80年、均質化していた映像的世界は、ブラックボックス化し、「魔法の世界」に移行しようとしています。
映像の世紀
誰もが一方的に与えられたテレビ、映画、アニメなどの『映像メディア』を同じように受け取っていた20世紀を指す。1つのコンテンツは多数のマスに向けて発信されていた。リアルとバーチャルは区別される。
魔法の世紀
映像的な表現が現実の物理空間で可能になった21世紀。リアルとバーチャルの境目がなくなる。インターネットやSNSの普及によって誰もがコンテンツの発信者となりえるし、受ける側としても情報選択の幅が非常に広がっている。
ブラックボックス化
コンピュータはすっかり身近なものとなったものの、実際に内部で何が行われているのかはプログラマーしか知らない。そして内部の処理を知らなくてもコンピュータを使うことはできる。
人はやがてロボットとして生きる?
たとえば米国の社会学者リチャード・フロリダは、それとは別に「クリエイティブ・クラス」という新しい階層が存在すると考えました。
従来からある『ホワイトカラー』『ブルーカラー』に加えて『クリエイティブ・クラス』という階層がすでに登場しているという考え方です。
これからの仕事はこう変わる
ブルーカラー
現場で人間にしかできない仕事を担当するという点では従来と同じ。ホワイトカラーが行っていたマネジメント業務がコンピュータの仕事に置き換わるとその分のコスト削減に伴いブルーカラーへの富の配分が高まる可能性があります。
ホワイトカラー
コンピュータに仕事を奪われる可能性が非常に高く、もっとも危機感を持つべき層。本書によるとホワイトカラーとは『何かを効率よく処理するための[歯車]』であり、『処理能力の高い[歯車]はいずれコンピュータに居場所を奪われてしまう』。だから例えば有名大学に入ってジェネラリストとして大企業や外資企業への就職を夢見るというのは、今後はまったくもってナンセンスな目標だそうです。
クリエイティブ・クラス
『誰も持っていないリソース』を持つ極めて専門性の高い知的労働者であり、ホワイトカラーの上位に位置します。クリエイティブ・クラスが持つ知識『暗黙知』は決してコンピュータに取って代わられることはありません。
クリエイティブ・クラスとして生きるために
すでに存在するクリエイティブ・クラスを目標にすることは無意味で、いくら頑張っても『もどき』にしかなりえません。
見ればわかる形式知の部分だけを表面的になぞることはできても、そこには独自性がない。
その「誰か」にだけ価値があるのですから、別のオリジナリティを持った「何者か」を目指すしかありません。
まとめ
『あっち側の人になりたいのか、こっち側の人で満足か』
私はわりとこんなことを考えます。
ライブハウスでの『あっち側』はアーティスト、『こっち側』はオーディエンス。ご飯を食べに行けば『あっち側』はお店、『こっち側』は客。
つまりたいていの物事には『踊らせる側』と『踊る側』がいて、たいていの場合は『踊る側』にいます。だけど『踊らせる側』にまわる場面がないわけじゃない。
コンピュータが生まれてからは80年というそれなりに長い時間が経っていますが、インターネットやSNSが一般的になって『情報伝達』の形を大きく変えたのはこの10年余り。今後はまた違った方向に世の中を変えていくことでしょう。
そのときに『踊らせる側』にまわりたいのか。『踊る側』に甘んじるのか。コンピュータというくくりに限らず自分の生き方のスタンスを考えてみるきっかけになる本でもあると思いました。